私の娘は「原発性リンパ浮腫」で産まれてきました。
三番目ということもあって特に不安もなく出産できるだろうと思っていたので、この病気を知ったときは現実を受け止めることがなかなかできませんでした。
どうしてわが子が・・・・。
出産後病室に来た家族の「お疲れ様」と言った表情は重く、私はすぐ「何かあったんだ」と感じ取りました。
出産直後に先生は娘の異常に気付き、翌日救急車で大きな病院のNICUへ搬送されることになりました。
私が娘に会えたのは搬送される前の数分だけ。ひざ下は両足共に紫色になっていて可哀そうで涙があふれてきました。
産婦人科の先生は、
「おなかの中でずっと逆子でしゃがんでいたから足にむくみが出ちゃったのかも」とおっしゃってましたが、今まで見たこともない症状に先生もよくわからなかったのだと思います。
大きな病院で染色体の異常の疑い(ターナー症候群)もあるのでその検査も受けました。
検査の結果、染色体には異常はありませんでしたが脳の検査では、
「普通の赤ちゃんより脳に隙間があるため知能遅れの心配もあります」と言われ、今振り返ればなぜ言われたのかわかりませんが、歩くこともできないかもしれませんとも言われてました。
次から次へといろんな検査が続き、産まれてきた喜びよりも不安ばかりで生きた心地がしませんでした。
毎回検査の結果を聞くの時は心臓が飛び出てきそうなくらいバクバクで・・・・。
そして診断された病名は「原発性リンパ浮腫」
NICUの中でスヤスヤ眠っている娘を抱っこして「五体満足で産んであげれなくてごめんね」と謝りました。
入院すること2週間、その間にも容赦なく母乳は出てくるので搾乳して冷凍して毎日病院へ届ける日々。
泣いてる場合ではない、私が今出来る事を精一杯やらなければと・・・・。
時間が経過するうちにだんだん現実を受け止め先のことを考えられるようになりました。
歩けなくても知能が遅れても一緒に生きてこう。
そんな気持ちが芽生え始め少しずつ笑顔で生活できるようになっていきました。
娘が退院した日、私よりも兄や姉の方が、妹を迎え入れる気持ちが素晴らしくて見習わなくてはと思いました。
退院してきた妹を満面の笑みで迎え入れ可愛くて取り合いでした。
「あんよきっと治るよね」ってやさしい表情で妹に話しかけてました。
家族に支えられてる・・・。
そう思った瞬間でもありました。
では今後どうしたらいいのか。
難病で薬も治療薬もないわけだから。
毎日夜小さな娘の足をリンパの流れが少しでも良くなるようにマッサージをし続けました。
「ちゃんと歩けますように」と祈りながら・・・・。
気持ちは前向きでしたが、わが子の成長ぶりと出かけた先で同じ年齢の赤ちゃんを見て比べてしまい滅入ることも何度もありました。
だんだん公園にも行かなくなり、自然と人に会うこともなくなってしまいました。
「母なのに弱くてダメだ」と自分を責めてもどうにも気持ちが元気になれなかったんです。
退院するときに他の大学病院を紹介され何度か通いましたが、経過観察するだけで特に改善もないと見放された感じでした。
治療法がないならあとは私が生活習慣でなんとかこれ以上悪くならないようにするしかないと覚悟を決め病院へ行くことも止めました。
でも奇跡が起きたのです。
なんと11か月にソファにつかまり立ちをしたのです。
そしてそれから何日も経たずに一歩歩いたんです。
号泣でした。歩けないかもと言われてたから夢のようでした。
諦めなくてよかった。歩けると信じてよかった。
すぐ靴を買いに行きました。
足の甲がパンパンに浮腫んでるので履ける靴がなかなかなくてたまたま履けた靴があったら3足くらいまとめ買いをしたりしました。
神様ありがとう。
そんな娘も今年20歳を迎えます。
今も足は相変わらずです。ヒールのある靴は履けません。スカートもほとんど履きません。
年頃でおしゃれもしたいのに気が付くと足を見せないファッションをして出かけてます。
でも今まで足のことで私を責める事は一度もありませんでした。
責めてもどうにもならないと思っているのでしょうね・・・。
ちゃんと学校にも通い運動も普通にでき、文武両道に育ってくれました。
今は看護の道を目指して国公立の大学に通ってます。
私はこれからも娘を応援しながら仲良く支えあって暮らしていきたいです。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
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